あっけない別れ

サイクリング

2020年6月末にロードバイク「Impulso」が到着。
6月初旬からは自宅近くの区民スポーツセンターに通い始めた。
数十年ぶりの運動。もともと健康維持のためのスポーツジム通いというものには抵抗があった。何かのスポーツのためにスポーツジムに通うのは目的があり、実際長続きするのだが、“健康のため”だけではモチベーションを感じられなかった。
今回は自転車に乗るための体力作りというモチベーションがあったし、通いはじめたスポーツジムには必要な機器が十分あったので、すんなりとジム通いが習慣となった。
インドアバイクという自転車のマシンがあり、ペダルを漕ぐ強度やケイデンスというクランクの回転数、心拍数も表示されるので、自転車向けのトレーニングや記録には問題ない。

今のロードバイクを趣味とする人々の間では、心拍数やケイデンス、ペダルを踏む強度(ワット数)や消費カロリー等、サイクル・コンピュータ―といって 自転車に組み込み 計測をする機器と、スマートフォンのような専用コンピュータ機器を繋げデータを計測して、自分の成長を楽しみに見ている。
私はまずはスポーツジムのインドアバイクで自分の体力作りの目安を見るようになり、これがジム通いを意欲的にする大きな原動力となった。

7月は雨が多くなかなか自転車に乗る機会がなかった。8月になると猛暑で、とてもじゃないが長時間、自転車で走る気が起きない。まだまだ本格的な体力はついていないのだ。
9月、10月と少しずつジムで体力をつけ、丹沢湖等神奈川県内を一人でサイクリングを続けていた。もうサイクリングという趣味が自分の中で定着してきて、ロードバイクの買い替えを考え始めていた。
そんな矢先、11月の第一週の連休のことだった。


転倒・骨折。18km自転車押して帰る

車にロードバイクを載せて、神奈川県内相模川自然の村公園そばの駐車場に車を止めて、そこから片道25km弱のサイクリングを始めた。津久井湖を通り抜け、さらに先の相模湖を渡り、高尾山そばの大垂水峠を目指すコースだ。津久井湖のあたりから、連休の観光地、車が多いのに驚いた。道は狭く反対車線の渋滞を見て”こんな道を帰ってこれるか?“と少し不安を覚えながら目的に向かって走り続けた。
今にして思えば、スポーツジムで体力作りこそしていたが、まだまだロードバイクで実際の道を走りこむ時間が十分ではなかった。
それでも順調に相模湖を超えて少し休憩をした。道は相変わらずの渋滞。
車をかき分け、少し先から目的の峠に向かう登り道が始まる。
4か月ほどのトレーニングの成果を試すときが来た。
初心者向けの峠なのだが、どれぐらい登れるか?自分でも興味しんしんだった。
峠の登りが始まると、車の通りはそれほどでもなく、淡々とのぼることができた。
まだまだ気温も高く、汗をかきながらも足も付くこともなく登り切った。
いや、正確に言うと、頂上の目印を見落としてしまい、数キロ以上下って行った。さすがにおかしいと思い、引き返してまた昇ってきたので、1回半ほど峠登りを試したことになる。

何はともあれ目的地までたどり着いた。少し水を飲んで戻ることにした。
峠を下り、再び渋滞の道を車をすり抜け、相模湖にたどり着いた。
もう昼食の時間だったので、ここで休んで食事をとってしっかり休むべきだった。
ここがまだビギナーの甘さだった。相模湖に入った登り道、集中力もどこかで落ちていたのかもしれない。必死で坂道をのぼっているところに、大きなトラックが自分の自転車ぎりぎりをかすめるように追い越していった。

“危ない”と思い、本能的に歩道側によけたのだがそのまま左側に転倒した。
あまりに急な倒れ方で、ピンディングというペダルとシューズをつけるピンは外れないまま倒れていた。その瞬間は今でもスロー・モーションのように覚えている。
左ひざから落ちて背中も打ち付けた。
“自転車も壊れたか?”と思ったが、自転車は無事だった。
しかし自分の左ひざが痛い。自転車にまたがるのもきついが、左膝に激痛が走り、とてもじゃないが自転車にまたがりペダルを漕ぐことはできなかった。
救急車を呼ぼうとも思ったが、こんなところで救急病院に運ばれたところで、駐車場までは自力でもどらなければいけない。救急車は自転車までは運んでくれないだろう。
車を止めた駐車場が17:00で閉まることも非常に気になった。
時間は13:00頃。Garminを見るとあと8kmとある。

とりあえず行けるところまで自転車を押して歩くことにした。
山道を片足で這うようにして押しながらトボトボと歩いた。
下り道は自転車にまたがってそのまま進むことにした。
相模湖を超えた山道を降りて平地の街のようなところにたどり着いた。
そこでもう足の限界を感じた。
ちょうどガソリンスタンドがあったので、そこでタクシーを呼んでもらうようお願いした。
しかし地元の2社のタクシー会社は来てもらえなかった。
かなり絶望的になったが、仕方ない。
そのまま自転車を押して歩くことにした。

“あと何時間かかるか?”
この道中の景色は、今も思い出したくない。
現代の地獄と思える時間と景色だ。
1時間ほど歩いただろうか。
ふとサイクル・コンピュータを見るとあと1kmほどとある。
おかしいと思い、改めて操作をすると、なんとまた8kmほどあることに気づいた。
そう、転倒した時に見た8kmというのは、どこかの中間地点までの距離だったのだ。
疲れ切って怪我の痛みのためしっかり見ていなかったが、実は怪我の地点から駐車場までは18km近くあったのだ。10kmほど進んだのだが、まだ8kmも残っている。
この時の絶望感は表現のしようがない。
目の前に続く山道。
まだ2つほど山を越えなければいけない。
誰も頼れない。

その時にふと思いついた。
平坦な道だったのだが、右足だけで漕げるか?試してみた。
ピンディングというシューズとペダルを固定することができたので、片足だけでも焦げた。
これでだいぶ楽になった。
平坦な道は自転車を漕いで進めたのだ。
これは大きな進歩だった。
残りの8kmは登りだけは自転車を押して歩き、平坦な道は漕ぎ、下りは何もせずに降りていけばよい。
寂しい山道を過ぎると、幸いにも最後の数kmは自転車も通れる舗装された広い歩道で、延々と下りの道だった。
日差しは明るく歩道を照らしていた。
この道を見た瞬間、大げさでなく”無事に帰れる”と思った。
橋の途中で自転車を止めると、視界の下には川が見えた。
この景色が自分にはなにかとてつもない希望の光景に思えた。
無意識でスマホを取りだし撮影をした。

自分としては”生還の瞬間“といった気分だ。
結局、転倒をしてから3時間半ほどで駐車場に着いた。
足の痛みをこらえ車を走らせ、自宅の近くで救急病院に電話をかけた。
応対に出た救急病院の人に状況を伝えると“そういう時はすぐに救急車を呼ぶものです!”と怒られた。
もうここまで来ているので、とりあえずこの病院に行くしかない。
対応してくれるということで、病院に到着した。
車から出ようとすると、足はもう痛みで全く動かなかった。
人生初めての車いすに乗り、診察を受けた。
人生初の骨折だった。
生まれて初めて松葉杖をもらい、帰宅した。

その後2カ月は、自宅勤務や松葉杖で時差出勤の生活が続いた。
職場の仲間にも負担をかけることとなった。
仕事の支障となる趣味は続けられないと思い、ロードバイクや自転車関連の機器やウェアは全て売却処分をした。

50代半ばにして久しぶりに打ち込むことのできた趣味とのあっけない別れである。


(終)
2020年3月21日

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